自我とは何か

自我とは偶像崇拝そのものである。分離した有限なる自己のしるしである自我は、肉体の中に生まれ、苦しんだあげく、死によって生命を終える宿命にある。自我は神の意志を敵と見る「意志」であり、神の意志が否認されるような形態をとる。自我とは、「強さとは弱いものであり、愛は恐ろしいものであり、生命とは実は死であり、に対立するものだけが真実である」ということの「証拠」である。

 

自我は正気ではない。恐れるあまり、自我は万有から離れ、無限から分離し、遍在を超えたところに立っている。狂気の中で、自我は自分が神そのものを打ち負かした勝者であると考える。そして恐怖の自治の中で、自我は神の意志が破壊されたと「見て」いる。自我は懲罰の夢を見て、その夢の中の人物たちを前に身震いする。彼らは敵であり、こちらからの先制攻撃により自分の安全が確保される前に、自分を殺しにくる者たちである。

 

神の子には自我はない。の中にいる神の子が、狂気やの死について何を知ることができるだろう。永遠の喜びの中に生きる神の子が、悲しみや苦しみについて何を知ることができるだろう。深い沈黙と静謐さの中にいる神の子を取り囲むものは、永久に葛藤も妨げもない不滅の平安だけだというときに、恐れや罰、罪や罪悪感、憎悪や攻撃について、神の子が何を知ることができるだろう。

 

実相を知るということは自我を見ないということである。自我の考えも、その働きも、その行為も、その法則も信念も、その夢も希望も、その救済計画も、自我を信じることに伴う犠牲も、一切見ないということである。自我を信じるために要求される苦しみの代価はあまりにも大きい。自我の闇の神殿においては、来る日も来る日も神の子が十字架にかけられ、病んだ信者たちが死にゆく準備を整える祭壇の前で血が流されなくてはならないほどである。

 

しかし一輪の赦しの百合の花が、闇を光に変え、幻想への祭壇を生命そのものの神殿に変えるだろう。そしてわが子として創造した神聖な心たちに、平安が取り戻されるだろう。それらはの住居、の喜び、の愛であり、完全にのもので完全にとひとつの心である。

 

奇跡講座 ワークブック編より