奇跡講座の教義

実在するものは脅かされない。

実在しないものは存在しない。

ここにの平安がある。

 

 『奇跡講座』はこのように始まる。実在するものと実在しないもの、すなわち智識と知覚を、根本的に区別する。智識は真理であり、それは愛すなわちの法である一なる法則のもとにある。真理は不変であり、永遠にして明瞭なものである。真理が認識されないということはありえるが、変更されることはありえない。真理はが創造したものすべてにあてはまり、が創造したもののみが実在する。それは時間もプロセスも超越したものであるから、学ぶことができるものではない。真理に対極はなく、始めも終わりもない。真理はただ在るのみである。

 

一方、知覚の世界には時間や変化があり、始めと終わりがある。この世界は解釈に基づいており、事実に基づくものではない。それは誕生と死のある世界であり、欠乏、損失、分離、死を信じる信念の上に築かれている。それは賦与されたものではなく、学ばれたものであり、その知覚が重視する対象は選択され、その機能は不安定、その解釈は不正確である。

 

智識と知覚の各々から、あらゆる点で正反対の二つの思考体系が生じる。智識の領域では、から離れて存在する想念はない。とその被造物は一なる意志を共有しているからである。しかし知覚の世界は、相対立するものごとや複数に分離した意志を信じる信念によって作られており、そうした意志はお互いの間およびとの間で絶え間なく葛藤している。知覚が見聞きするものはあたかも実在するかに見えるが、その理由は、知覚する主体である本人の願望に一致するもののみが自覚されるからである。これが、幻想の世界を作り上げる。その世界は、それが実在しないというまさにその理由ゆえに、絶え間ない防衛を必要としている。

 

知覚の世界に捕らえられているとき、あなたは夢の中に閉じ込められている。助けがなければ、あなたがそこから逃れることはできない。なぜなら、五感があなたに見せるものはすべて、その夢の実在性を証言するだけだからである。は、そこから抜け出す唯一のにして真の助力者である答えを与えた。二つの世界を媒介することが、神の声すなわち聖なる霊のはたらきである。聖霊にこれができる理由は、聖霊が一方では真理を知っており、他方では、私たちの幻想を信じ込むことなくそれを幻想と認識するからである。聖霊の目的は、私たちの思考を逆転させ、私たちが学んでしまった間違いを白紙に戻す方法を教えることによって、私たちが夢の世界から脱け出すのを助けることである。この思考の逆転をもたらすために聖霊が用いる大いなる学びの補助手段が、赦しである。ただし、『奇跡講座』はこの世界について独自の定義をしているのと同様に、何が真の赦しであるかについても独自の定義をしている。

 

私たちの見ている世界は、自らの内なる判断基準を映し出しているにすぎない。すなわち、心の中にある支配的な想念や願望や感情の反映である。「知覚が投影を作り出す」(テキスト第21章・序・1)のである。私たちは最初に自分の内を見て、どのような世界を見たいかを決め、それからその世界を外に投影し、自分が見ているままにそれを真理とする。私たちは自分に見えているものが何であるかという自分の解釈によって、それを真実にする。もしも、怒り、攻撃衝動、何らかの形で表われる愛の欠如といった自分の間違いを正当化するために知覚を用いているなら、私たちは邪悪さ、破壊、悪意、羨望、絶望の世界を見ることだろう。こうしたすべてを赦すことを、私たちは学ばなければならない。それは、私たちが「善良」で「情け深い」からではなく、私たちに見えているものが真実ではないからである。私たちは歪んだ防衛により世界を歪曲してしまったので、本来はそこに存在しないものを見ている。知覚上の誤りを認識することを学ぶとき、私たちはまた、そうした誤りを超えたことろを見ること、すなわち、「赦すこと」を学ぶ。同時に私たちは自分自身をも赦し、歪曲された自己概念を超えて、が私たちの内に、私たちとして創造した自己を見る。

 

罪は、「愛の欠如」(テキスト第1章・Ⅳ・3)と定義される。愛は存在するすべてであるから、聖霊から見れば、罪とは罰せられるべき悪ではなく、訂正されるべき間違いである。力不足、弱さ、もの足りなさといった私たちが抱く感覚は、幻影の世界全体を支配している「欠乏の原理」への強い執着に由来している。そうした観点から、私たちは自分に欠けていると感じているものを他者の内にさがし求める。私たちが他者を「愛する」のは、自ら何かを手に入れるためである。実はそれこそが、この夢の世界において愛だと思われているものの正体である。これ以上の大きな間違いはない。なぜなら、愛には、何かを要求するなどということはできないからである。

 

心だけが真につながり合うことができるのであり、がひとつにつないだものは、いかなる人間も引き離すことはできない。(テキスト第17章・Ⅲ・7)しかし、真の融合はキリストの心のレベルにおいてのみ可能であり、実際には、それは一度も失われたことはない。「卑小な自分」は、外界からの承認、外界における所有物、そして外界における「愛」により、自らを補強しようとする。の創造した自己は何も必要としない。それは永遠に完全であり、安全であり、愛され、愛するものである。それは獲得するのではなく分かち合おうとし、投影するのではなく延長しようとする。それは何も必要とせず、豊かさを相互に自覚しているので他者とつながることを望む。

 

この世界の「特別な関係」は、破壊的で利己的、そして幼稚なほど自我中心的である。しかし聖霊にゆだねられたとき、そうした関係は、地上で最も神聖なものとなり、天国へ戻る道を指し示す奇跡となる。この世界は、「特別な関係」を除外という究極の武器として、また分離を実証するものとして用いる。聖霊はそれらを、赦しの完璧なレッスン、夢から目覚めるための完璧なレッスンへと変容させる。その一つ一つが、知覚が癒され、誤りが訂正されるための機会である。そのどれもが、他者を赦すことにより自分自身を赦すための新たなチャンスである。さらには、その一つ一つが、聖霊を、そしてまたの想起を新たに招聘するものとなる。

 

知覚は肉体の機能であり、したがって、自覚を制限するものに相当する。知覚は肉体の目をもって見、肉体の耳を通して聞く。それは肉体が作り出す限られた反応を引き起こす。肉体は概して自らの動機によって動く独立したものであるかに見えるが、実際は、心がもつ意図に応答するだけである。心が肉体を何らかの形の攻撃に使いたいと思うなら、肉体は病気や老化や衰退の餌食となる。一方、心が聖霊の目的を受け入れるなら、肉体は他者と親交(コミュニケーション)をするための有用な手段となり、必要とされる間は傷つくことなく、その役割が終われば静かに横たえられるものとなる。肉体はそれ自体ではよくも悪くもない。これはこの世界のすべてのものごとと同様である。それが自我の目標のために使われるか聖霊の目標のために使われるかは、ひとえに、心が何を望むかにかかっている。

 

肉体の目を通してみることの反対がキリストの心眼(ヴィジョン)であり、それは、弱さではなく強さを、分離ではなく一致を、恐れではなく愛を映し出す。肉体の耳で聞くことの反対は、を代弁するを介した親交(コミュニケーション)であり、そのである聖霊は、私たち一人ひとりの内に宿っている。そのは、か細くて聞きとりにくいもののように思われているが、その理由は、卑小な分離した自己を代弁する自我の声のほうがずっと大きいかのように感じられるからである。これは実際には逆である。聖霊は間違えようのない明瞭さと、圧倒的な魅力をもって語る。自らを肉体と同一視することを選択しない者であれば、聖霊の解放と希望のメッセージが聞こえないということはありえない。また、哀れな自画像と引き換えに、喜んでキリストの心眼(ヴィジョン)を受け入れられないはずがない。

 

キリストの心眼(ヴィジョン)は聖霊の贈物であり、分離という幻想や、罪、罪悪感、死の実在性を信じる信念にかわるものとして、により用意されている選択肢である。それはすべての知覚の誤りに対する一なる訂正であり、この世界が依拠している相対立するように見えるものごとの間の和解である。その優しい光はあらゆるものを新しい視点から見せ、智識から生じる思考体系を映し出し、のもとに戻ることを可能にするだけでなく、不可避とする。ある者に対し他者から為された不正議と見なされてきたことは、今や助けと融和を求める声となる。罪や病気や攻撃は、優しさと愛による癒しを求めている誤った知覚と捉えられる。攻撃の無いところに防衛は不要なので、防衛は放棄される。私たちがへと向かうとき、兄弟は共にその旅をしているので、彼らの必要は私たちの必要となる。私たちがいなければ、彼らは道に迷ってしまう。彼らがいなければ、私たちは自らの道を決して見出すことはできない。

 

赦しの必要性など想像することもできない天国にあっては、赦しは知られざるものである。しかしこの世界においては、赦しは私たちの犯したすべての間違いに必要な訂正である。赦しを差し出すことが、私たちが赦されるための唯一の方法である。それが、与えることと受け取ることは同一であるという天国の法則を反映するからである。天国とは、に創造されたままのすべての神の子らの自然な状態である。それが永遠に彼らの実相である。忘れられてきたからといって、そうであることに変わりはない。

 

赦しは私たちが思い出すための手段である。赦しによって世界の思考は逆転する。赦された世界は天国への門となる。なぜなら、その慈悲により、私たちはついに自らを赦すことができるようになるからである。誰のことも罪悪感の虜にせずにおけば、私たちが自由になる。すべての兄弟の内にキリストを認めることにより、私たちは自らの内にキリストの臨在を認識する。誤った知覚のすべてを忘れ、過去からの何ものにも引き止められないとき、私たちはを思い出すことができる。ここから先にはもう学びはない。私たちの準備が整ったとき、私たちがのもとに戻るのに必要な最後の一歩を、神ご自身が踏み出してくれるだろう。

 

奇跡講座 テキスト編より